最後の晩餐のとき、イエスは言われた。「わたしは真のぶどうの木であり、わたしの父は農夫である。」わたしにつながっている枝で実を結ばないものは、父がそれを取り除かれる。実を結ぶ枝は、さらに多くの実を結ぶように刈り込まれる。弟子たちは枝と呼ばれる。「わたしに留まりなさい、わたしがあなたがたに留まるように…枝はぶどうの木に留まっていなければ、自分では実を結ぶことができない。」わたしに留まり、わたしがその人に留まるなら、その人は多くの実を結ぶ(ヨハネ15:1-5)。
ヨハネ福音書におけるイメージ
この箇所は最後の晩餐の説教に属し、主がゲツセマネの園に向かう前のものです。注解者たち(ブラウン、教会をキリストの体とするカテキズムなど)は、「留まる」(メノー)がヨハネのキーワードであると強調しています——それはイエスとの関係にしっかりととどまることであり、単なる知識ではありません。
わたしに留まらない者は、枝のように外に投げ出されて枯れてしまう…
— ヨハネ15:6(各種翻訳による意訳)本文に基づく考察
このたとえ話のぶどうの木と農夫はイエスと父なる神であり、枝は弟子たちです。「実」は、その後の愛と戒めを守ることに関する箇所(9-17節)と結びついています。第15章を、同じ説教の中の聖霊の約束(26-27節)から切り離してはなりません。
区別
これは直接の説教における比喩であり、以前のいくつかの物語のような「偽装された」たとえ話ではありません——この記事の提案によれば、依然として「主の物語/教え」に属します。
応用
ミサ、神の言葉、交わりを通じて弟子たちとつながることが「留まる」方法です。霊的な実は具体的な愛として現れ、単なる内面的な感情ではありません。注解者たちはさらに、枝は自分で愛を「自給自足」できないと指摘しています——聖霊と教会の交わりが必要であり、それはヨハネが弁護者についての説教と結びつけているとおりです。「わたしの愛にとどまりなさい」(9節)という言葉は明確に示しています。実は、主が晩餐の直前に与えた愛の戒めから切り離せないのです。
要約
- イエスは真のぶどうの木、父は農夫である。
- 枝は留まらなければ実を結ばない。
- このたとえの刈り込みと取り除きは、愛と戒めに関連している。
- 真理の霊が同じ説教の続きとして語られる。


